殺伐とした平日の新宿駅の構内は往来どころか四方八方に行き交い、ぶつかりそうな人は眉根を寄せてすれ違うと、マスクの下で舌を鳴らしたに違いなかった。あの改札の流れを止めさえすれば、ビタッと渋滞が作られて注目を浴びる。僕が颯爽と身を引くとなにか…
「ねぇ!僕たちって最高のコンビになると思わない?」 黒猫が耳元で話しかける。子猫とはいえ肩に乗せたまま歩くと段々疲れてくる。 「私とクロが?」 「だから僕はクロじゃないって!!そんな安直な名前つけないでよ!」 「だってミラが付けたんじゃないの…
旅の支度には時間がかかった。東の国へたどり着くにはお金がかかる。往復分の路銀と旅に必要な物資など街で買い揃えた。後は食料と… リリィは苦笑した。自分の金では足りないので店の金で補ったのだ。 「アリーに首にされるかも…。」 開かれた旅行カバンには…
リリィがぺぺ爺の家を訪れる四時間前。 魔女は苦悩していた。新しい肉体を手にしてすぐに身体を酷使して、魔力を使いすぎてしまったことを。それらは魂を定着させて間もない期間にしてはいけない行為だった。このまま安静にしなければ魂が拒否反応を起こし、…
影帽子は未だにcloseが裏返されることなく、ミラが学校の行き帰りに店の様子を伺いに来ているのをいつも二階の窓から眺めていた。ここ一週間で店にやってくるのはミラと新聞配達くらいだった。 新聞に大きく掲載されていたのは私の顔だった。 「マーメイドカ…
猫人間達の拍手喝采で目が覚めた。会場は黄色い声援で満たされて、花束が投げられた。観客席全員がスタンディングオベーションで、群衆が同じ笑みを浮かべて拍手しながらリリイ目掛けて走ってきた。おぞましい悪夢だった。 「お前達に二度と会いたくなかった…
海面の光がどんどん遠ざかっていく。リリィは水中で仰臥しその身体はみるみる下へ沈んでいった。息ができない。海水の温度が彼女の体温をみるみる下げていった。 自由はきかないものの普通の状態ならまだ這い上がれたかもしれない。苦痛が体中を駆け巡り、重…
青い海の前で赤い女が身の丈ほどある黒い鎌を悠々と振りかざす異様な光景に魔女は笑いが込み上げてきた。 「わしの鎌でわしの名を語りおって…」 魔女は顔面を裂くように口角を上げた。 「そのおなごに恋をしたのだな!わしと同じように【人間失格】を唱え憑…
ミラが去った後、リリィはしばらく海を眺めていた。手元のビンを拾い上げてコルクを外した。ビンの中に敷き詰められた灰を逃すようにゆっくりと下に傾けるとそれは少しずつ、少しずつ風に吹かれて消えて行った。 『生まれ変わっても悪魔になりてぇな。』 ジ…
女は窓から街の方を眺めた。密集した建物から孤立した女の家は、開けた荒地に街を少し上から見下すように建っていた。 あの街が嫌いだ。魔法使いマーリンが作ったジュリアナは元々はわしの故郷の静かな村だった。わしが離れた数十年の間にこんな汚れた土地に…
港を離れた蒸気船が汽笛を鳴らした。カモメを上空を舞い、無数の銀の光が海面で飛び跳ねた。埠頭では野良猫が漁師達を待ち始め、その下でフナムシがそわそわと蠢きだした。 長い長い夜明けを終えた。今までのことが嘘のように静かに海がキラキラ輝いている。…
「うわぁぁぁぁぁぁん!!」 ジャンの体でリリィは小さな子供のように泣いていた。その姿に胸が痛めつけられ同情心を煽られる。 彼女は二重人格ではなかっただろうか?女優が演技を始めるように、人格が変わったのはそれこそ何かに憑依されていのではないか…
痛みで目が覚めた。目の前に広がる快晴の空と静かな波の音。そして斜め上から燦々と突き刺す日差しが、相変わらずジャンの体を燃やし続けていた。夢じゃないこの地獄こそ、紛れもない現実だ。 黄泉の世界から帰ってきて、再び圧倒的に不利になった。初めて直…
映画館はまるで火事のようだった。誰もいない観客席に火の粉が散った。おそらく猫人間達は慌てて出ていったのだろう。あたりのゴミにまで火が飛び移り、もうこの映画館は終わりだと思った。 目の前のスクリーンがゆっくりと燃えている。火のフレームは中心に…
「おしまい。おしまい。」 アリーは本を閉じて。こちらに優しく微笑んだ。 「さぁ坊や。もうお休みなさい。」 「アリー…。」 掛け布団をジャンの肩までかぶせ、額に優しく手を重ねた。 「なぁに?」 ラストシーンだ。映画館に戻ったジャンに天から降り注ぐよ…
再びスクリーン中央に戻ってきたジャンは立ち尽くしていた。スポットライトに照らされるように正面から強い光を受けても気に留めず、ただ呆然としていた。 「生きてる…。」 映画館はやけに静かであった。誰もいないと思った観客席には先ほどの猫人間達が全員…
再び同じ日の影帽子の中へ戻ってきた。ありがたいことに二日酔いは薄れていた。視界が捉えたのはミラだった。彼女は怯えた表情で後退りしている。今に出て行こうとしている雰囲気だった。 「にゃぁぁ。」 引き止めようした瞬間に目の前の黒い骸からか細い鳴…
目の前の観客席では猫人間の群衆が野次を飛ばしている。その声は猫でも人間でもないが、ただ何かを大声で訴えているのが分かる。中にはジャンを待ってましたと言わんばかりに興奮して煽ってきている連中、手を叩いて笑い飛ばす連中もいた。 聞くまでもない。…
「それじゃ、また来るわね。」 紙袋を片手にマダムはドアノブに手をかけ、こちらを見てにこりと笑った。彼女の過去を聞いただけで印象がまるで違って見えた。 「私がべらべら喋ったことはアリーには内緒よ。」 彼女は口もとで指を立ていたずらに笑うけれど、…
「これも素敵ね。でもこっちの方がいいかしら。」 「どちらもすごくお似合いですよー」 スクリーンに映し出されたのは影帽子のなかであった。店内の鏡の前でポージングしている女性は帽子選びに夢中であった。これはマダムステラが最後に来店した日だ。 「ま…
ああ。本当に死んでしまったのだ。 「いまから始まる映画ですが、実はただ映像を流すだけではありません。」 「どういうこと?」 「あなた自身が過去の映像の中へ飛び込み、あなたの視点でもう一度その場面を追体験することができるのです。」 クロが背を向…
気がついたら大きな暗室の中でイスに座っていた。イスに貼り付けのまま体を動かさずに目線だけ泳がして状況を理解しようとした。おそるおそる首を回して、周囲を確認できた。気がつけば体を纏った炎も痛みも消え去っていた。 目の前に大きなスクリーンのよう…
リリィは東の国に生まれた。東の国で知らない者はいない有名企業の社長令嬢であり、魔女の血を引いた家系の末端の娘だった。 ジャンは仰向けで冷えたアスファルトに磔されている。耳元で波の音が近づいてくる度に死の訪れを予感した。女は狂気を孕んだ笑顔を…
「あぁもう、その表情たまらないわ…!」 リリィは片手でジャンの手首をとらえたまま離さず、力を強めた。この華奢な身体のどこにこんな握力を秘めているのか、骨が折れるほど強く握られてジャンは悶えた。抵抗しようにもうまく力が入らなかった。体が痺れて…
「あはははっ。ダンス楽しかった!」 「まったく踊れなかった…。」 夜の三番街の賑やかな通りを抜け、静かな裏道を歩く。なめらかな階段を下りながら二人は港の方角へ向かっていた。 「ねぇ?お父さん怒ってるんじゃ…」 「大丈夫だよー。」 何が大丈夫なのだ…
お互いの名前すら知らない男女が夜の三番街を二人寄り添って歩いてゆく。 「俺はジャン。」 ジャンは彼女の距離感に違和感を覚えながらも、初めてまともに接触した女の生暖かい感触と香りに足取りがぎこちなくなりそうだった。 「私はリリィ。」 「リリィね…
気がつくと危険区域に迷い込んでしまっていた。落書きの数が増えてきたことで気がついた。ここは三番街で最も治安が悪いと言われている通りだ。外灯の数が少なくゴミがそこらじゅうに散乱し悪臭を放った。下でネズミが横切る道を、上でカラスが目下す道を潜…
次の朝、ジャンはゆっくり体を起こして時計を睨んだ。帽子屋の開店時間はとっくに過ぎていた。ベッドから足を下ろし呟いた。 「今日は定休日です。」 ジャンは足を戻し、またベッドに潜った。ここ最近は働き詰めだった。アリーがいなくなってから影帽子は休…
帽子屋の営業を終えたジャンは店の閉め作業をした。道具やゴミで散らばった作業台の上を一掃して水拭きのフキンで拭いた。まじない屋の営業を始める前に夕食を済ませなくてはならなかった。いつもは上にあがってリビングでアリーと食卓を囲むが、誰もいない…
ジョーは影帽子に来なくなった。最後に朝まで飲んだ日から一週間は経つ。毎日のように顔を出しては飲み交わしていたあの夜がすでに懐かしく感じる。今にも勢いよくドアを開けて入ってきそうな彼に柄にもなく披露したい皮肉や冗談がこの期間にいくつも思いつ…