夜の影帽子【8話】互いの悩み
ジョーは影帽子に来なくなった。最後に朝まで飲んだ日から一週間は経つ。毎日のように顔を出しては飲み交わしていたあの夜がすでに懐かしく感じる。今にも勢いよくドアを開けて入ってきそうな彼に柄にもなく披露したい皮肉や冗談がこの期間にいくつも思いついた。
「ねぇ!…ねぇってば!」
ミラが体をゆするとようやく我に帰った。どうやら放心状態だったようだ。か弱そうな少女の真っ白な腕が肩に吸い付いているのを虚な目で眺めると、思わず齧り付いてしまいたくなり、自分が悪魔であることを再認識した。いかん吸欲が…。
「聞いてるー?」
「ん。ぼーっとしてた。」
「最近疲れてるんじゃないの?」
「大丈夫。…なんだっけ?」
「やっぱり聞いてないじゃん!この意味を教えて!」とミラは古代魔法の文書に指をさして訴えた。
まるでジョーがいない隙間を埋めるかのようにいつにも増してミラが頻繁に訪れた。魔法使いになると言い出した次の日から基本を適当に語ると、彼女は真剣な表情で聞こうとし、ついにはメモまで取り始めた。どうやら本気のようだった。すぐに飽きるだろうと意地悪で大人向けの学術書を貸し与えれば次の日には本の半分の内容を理解とは程遠くも記憶するほどのめり込んでいった。その吸収速度にジャンは驚嘆した。
ミラ自身も熱中できるものを見つけて楽しそうだった。鼻歌なんかを歌ったりしてはいきよいよく店のドアを開けて来た。
けれどその日はドアが静かに重く開いた。
「お母さんに怒られた。もうここに来ちゃダメって…。」
「無理もないよ。」
遅いくらいだ。ミラの私生活を阻害している影帽子にそろそろ母親から野次の一つくらいは飛んできてもおかしくはないだろう。
「影帽子に来なくても勉強はできるから、しばらくは店に来ないこと。」
「えー!ここじゃなきゃやだー!」
ジャンは顔が綻んだ。けれど店に悪い噂が立っては困るのだ。
「とりあえずこれを全部読み終わったら実践に入ろう。」
互いの顔が隠れるほどに重なった本をどさっと机の上に置いた。
「ほんとに!?わたし頑張るね!」
嫌な顔一つせず食いついているミラにジャンは過去の自分と重ねた。困難な事も好きなら苦とせず、真っ直ぐと進みゆく目の輝きは眩しかった。自分が最後に魔法が楽しいと思ったのはいつだったろうか?
ミラは手元に近い本からパラパラとページをめくり始めた。にしても子供とは単純だ。扱いさえ分かれば楽だなと、ジャンはご満悦そうに顎に手を添えた。
「ちゃーんと学校にも行ってね。」
ミラの手が止まった。ジャンがふいに投げかけた一言で彼女の晴れていた顔が急に曇りだした。
「ん?どうしたの?」
「…行きたくない。」
鼻で笑って、教鞭に立ったつもりで説教を試みた。
「俺だって帽子を作りながら魔法を販売してミラの先生にまでなってるんだよ?学校行きながら魔法の勉強くらいできるでしょ?」
ミラは下を向いて不服そうな顔を示した。
「…そうじゃなくて。」
思えばこれまでミラ自身の事について聞いたことがあまりないかもしれない。ここでは天真爛漫な少女が学校の話だけでこうも拒否反応を示すとは思わなかった。
「どうして学校が嫌いなの?勉強が得意なのに。」
「別に嫌いじゃない。居心地が悪いの。」
「…そっか。大変なんだね。」
素っ気なく相槌を打ったジャンはこれ以上先の理由を聞くのにためらい、会話はそれきりになった。
影帽子の前を学校から帰る子供達の声が夕暮れの道にキャッキャと響いた。声が店に漏れてきて二人の沈黙を余計に気まずくさせた。
「よく子供達が通るんだ。大人は遠ざけたい道だからきっと自分たちで見つけた近道なんだろうね。」
いつになく会話を作ったがミラは特に気にしないといった態度で机に向かい本を読み進めた。浮かない顔をしているのでジャンはふと自分の話し始めた。
「偉そうなこと言ったけど、学校に行ったことないんだ。」
「え?」とミラは顔を上げた。
「そもそもこの店から出ることが出来ないんだよ。」
「どうして?」
彼女は顔を覗き込むように理由を待った。初めて外の人間に自らの病気を打ち明ける。リスクは伴うけれど、この子を信じてもいいと思えて来た。初めて出来た弟子なのだ。
「太陽の光を浴びると、体が燃えてしまうんだ。」
ジャンはこれ以上空気が重くならないためにもフランクな告白を努めた。ミラはきょとんとして目を見開くと、
「そんなことってあるの?」
さすがに疑っている様子だった。魔法を信じきった子供でも信じられない事象だろう。首を傾げ、眉根を寄せたミラの表情がたまらなく可笑しくなってきた。
「きっと呪いなんだよ。気付いたらこうなってた。」
「今だってこんなに明るいんだよ?」
窓から差し込む西日がジャンの顔にはっきりに影を作り、パーツを際立たせる。
「アリーの話しは前にしたよね?俺の師匠で育ての親みたいな魔女さ。彼女がこの店に特別な魔法をかけてるんだ。太陽の日差しから俺を守ってるくれるように…どんなに強い光が差し込んでもこの場所では大丈夫なんだ。」
ミラは納得したように手を合わせ、弾ませた。
「このお店自体が帽子なんだね。」
「俺にとってはね。もう信じたの?」
「魔法がこの世界にあるんだから、何があったって不思議じゃないよ!」
「それもそうか…。」
「でもなんだか可哀想。」
二人して窓際に立って外を眺めた。気まずさの消えた穏やかな沈黙のほうが居心地悪くなった。
「小さい頃は魔法と本があるから外にでなくてもいいと思ってた。十分楽しかったからね。…けどやっぱり羨ましくなるんだよ。家の中から子供達の声を聞くたびに。」
目を落としてミラは再び物憂げな顔をした。
「でも実際に学校に入ってたら、ミラみたいに毎日サボってたかな。あははは。」
「ジャンは真面目だから行くと思うよ。」
「…どうだろう。ミラは本当に魔法使いになりたいの?」
「なりたい。」
こちらに向き直りまた真っ直ぐな目を向けた。西日の光で彼女の頬は照り、燃えたぎるような気持ちを募らせているのが余計に眩しくて思わず目を逸らした。
「…多分、魔法使いに一番必要なのは覚悟だと思う。知識なんかは別にあとからでもいいんだ。」
「かくご…?」
「今、この街の魔法使い達は笑われてるって聞いた。まだ魔法なんかやってるのか?ってね。それでも彼らはわずかな魔力を引き出そうと修行をし続けてる。…普通の人達の生き方と違うんだ。街の人間はそれを愚行と呼ぶけど、俺はね、同じ魔法使いとして敬意込めて勇気と呼ぶよ。」
言いながら背中が軽くなるような話しだ。ほとんどアリーの受け売りだが、ミラの本気で取り組む姿勢をこの期間に真近で見て、もしかしたら自分よりも魔法使いの素質があると思った。
魔法使いになるのも、学校にいくことも全ては彼女が自分で勝手に決める事だ…。何を選んだって否定などするものか。
「でもさすがにお母さんとはちゃんと話しをしないとね。」
ミラは口を窄めた。
「反対されるとは思うけど、ミラの頑張りにお母さんも身に覚えの一つくらいあると思うよ?」
「わかった話ししてみる。ところでジャンはどうして魔法使いになろうと思ったの?」
「えっと…俺は…」
また迷ってしまった。確かに絵本や小説の中の魔法使いに憧れてきた。ミラくらいの歳の頃はマーリンのイラストを部屋中に貼ったりしては夢に囲まれはためいていた。けれどその目標も徐々に剥がれ落ちていった。その指標があまりにも遠いだけならまだよかったかもしれない。途中で自分が何をしたいのか分からなくなってしまったのだ。
ある時、魔法が出せなくなった。なんてことはない魔法使いなら思春期に訪れる一時的なスランプだった。けれどこの世の終わりのように絶望した。イライラしては部屋をぐちゃぐちゃに散らかし、壁を蹴った。アリーにも当たり散らした。彼女の優しい慰めも全てが偽りに聞こえた。
全てに嫌気がさして、太陽が燦々と照る真昼に思い切ってドアを開け放ち駆け出した。するとジャンの身体は足先からみるみる燃え始めた。数秒前までどうにでもなれと思っていたのに急に恐ろしくなった。本能が今すぐ戻れ!と叫んだ。下半身に全て燃え移る前に家へ引き返し駆け込んだ。
その後、夜まで泣いたのだ。アリーに謝り、深い眠りについた。
悪魔であるマイノリティに加えて、努力と才能を見出せなくなる失望。そして病気という孤独。いつしか部屋の四隅で影が手招きしている気がした。それに何度も何度も答えようとした。
俺は縛られた暗澹を抱えた悪魔だ。アリーのように心優しい魔法使いでもない。ジョーのように今を生きれる豪快な悪魔でもない。そしてミラ、君のように才能に恵まれ、素直に好きを追求できるわけでもないのだ。俺だってこんな心と身体じゃなければ人の役に立ちかった。
「病気…治したいな。」
呟いた。ミラは心配そうな顔をする。おそらく泣きそうになっていたからだ。夕陽はとっくに沈んでいた。街が大きな影で覆われてゆく。
ミラに背を向け鼻を啜った。
「も、もう暗くなるから帰ろっか?本を袋にいれとくから。」
「ジャン。ねぇ大丈夫?」
「大丈夫だよ。ほら!また叱られるよ。帰った帰った。」