夜の影帽子【18話】北の魔女達
「これも素敵ね。でもこっちの方がいいかしら。」
「どちらもすごくお似合いですよー」
スクリーンに映し出されたのは影帽子のなかであった。店内の鏡の前でポージングしている女性は帽子選びに夢中であった。これはマダムステラが最後に来店した日だ。
「まさかこれが厳選して選んだシーンだって?」
どう考えてもおかしい。二十年間特に変わりばえのない日々を送ってきた。ドラマチックと呼べるような最盛期も他の人生に比べてないのは間違いない。だからこそだ。自己ベストのハイライトを映せと思った。ジョーもアリーもいない、ついこの間の出来事ではないか。
「文句は言わないで欲しいのにゃ。」
「せめて早送りとかできないの?彼女はここからが長いんだ。」
死んでなお彼女の買い物に付き合わされるのはごめんだ。ジャンはイスにもたれて肘掛に頬杖をついた。
「彼女に伝えたいことはにゃいの?」
「別にこれといって…。」
アリーやジョーに早く会いたかった。マダムステラは数少ない信頼できる人間ではあるけれど、あの毒舌がいまいち好きになれない。
「実はこの女の人、もうすぐ病気にかかるんだ。」
クロがこちらを見て伺っている。クロの目はスクリーンの光でビー玉のようにクリクリと輝いていた。
「本当に?」
「集大成を書き上げてるらしいにゃ。椅子に座り続けて腰を痛めて、動けなくなるにゃ…行ってあげにゃよ。後悔するよ?」
「でも俺が行ったところで…。」
「ならスキップするにゃ?」
「…わかった。行ってみるよ。」
確かめたいことはあった。拳を握りイスから立ち上がると、何人かの猫人間が訝しげにこちらを見始めた。列の真ん中にいたので通路へ出るために横に並んだ後ろ足を避けながら、身をかがめて歩いた。
スクリーンの目の前に堂々と立ったので何人かが野次を飛ばしたり、指差して笑っていた。ため息が出た。主演俳優に対してなんという侮辱だろうか?
ジャンは凛とした態度でスクリーンの中へ片足を入れてみた。足先から水の中に入れたような波紋が出来て広がると向こうから不思議な力が働いていてズイズイ膜の中に吸い込まれていった。それは白い光の中に包まれたようだ。
気がつくとそこは影帽子の店だった。
…ああ。これはもう始まってるのか。突然だった。さっきまで客観視して見ていた光景が、視界を変え、当時の匂い、音、手触り、五感全てを鮮明に蘇らせた。まぎれもなく現実世界そのものだ。映画館の中にいた事の方が夢だったのではないか?生き返った心地だった。死んだことを疑うほどの再現度の高さに驚嘆した。
しかしなぜだろうか?体が気怠い。そういえばこの日は二日酔いだった。そんな感覚まで再現しなくても良いのに…。最近の記憶なのでジャンは明確な未来予想ができた。マダムはこの後また小言を言う。確か…
「あなたって女の人にすぐ騙されそうよね。気をつけなさいよ。」
「はい。…実にその通りです。」
まったくだ。死の手前にこんな重要な忠告を流していたとは…。適当に相槌を打って貼りつけたスマイルの裏はいつもマダムを煙たがっていた。
「それにしてもあなたも大変ねぇ…。」
「何がでしょうか?」
ジャンはあのときと同じように応答した。
「アリー…まだ帰ってないんでしょう?」
彼女は鏡の顔を見つめながら帽子に夢中、というよりもはや顔面に夢中であった。
「マダム…。」
「なにかしら?」
ジャンの呼びかけを珍しく感じたのか、彼女はこちらを向いた。
「アリーがどこにいるのか…本当は知ってるんじゃないですか?」
ジャンがそう聞くと、マダムは目を開いて凝視した。
「どうしてそう思うの?」
「こないだ…アリーの部屋を掃除してたら古い写真を見つけました。自分と同じくらいのの女の子が写ってて…」
本来それを見つけたのはこの日の後だった。若かれし頃のアリーとマダムが姉妹のように肩を寄せて笑っていた。二人とも新品の黒マントと羽織り、とんがり帽子を被っていた。なにかの記念に撮られたのだろう。
「まぁ!それはきっと卒業式のときね。」
「そんな感じがします。部屋から持ってきましょうか?」
「結構よ…。沢山写真を持ってるもの。」
「知りませんでした。そんな昔からの仲だったこと…。だからアリーの行方を知ってるんじゃないかなって…。」
「あなたの前だと彼女、昔の話しをしたがらないものね…。いいわ…教えてあげる。ついでに私とアリーのこともね…。」
マダムは帽子をマネキンに預けて店の椅子に座った。ジャンも彼女の向かいに腰掛け、テーブルで向かい合う。こうして改めて見ると彼女は綺麗な御婦人だ。写真の若かれしマダムも美少女であったが目の前の現像がこれはこれで熟した美しさを兼ね備えている。整った顔に深く刻まれた襞がそう思わせる気がした。
「私たちは北の山奥の小さな村で生まれ育ったの。私とアリーは親友だった…。もちろん今もそうなのだけれど。あの頃は毎日のように一緒にいて、お互いの部屋に入り浸ってたわ…。とても楽しかった。」
アリーが北の出身だというのは聞いたことがあった。マダムとは幼なじみだったのか。
「写真でわかっちゃったと思うけれど私も元々は見習いの魔女だったの…。親友であり、お互い切磋琢磨し合うライバルでもあったわ。魔法を教え合っては唱えっこしてたのよ。」
「ある日、一度だけアリーをニワトリに変えてしまって戻せなくなったわ…結局魔法は解けたのだけど、向こうの両親がカンカンでね…。アリーはすごく楽しかったって今なんかは言ってくれるのだけれど、当時はしばらく気まずくなったりしてね。そのまま二人とも北の魔法学院に入学したの…。」
おとぎ話のような魔法を当たり前のように使えた時代。つい数十年前までは世界は優秀な魔法使いに溢れていたのだ。
「アリーには才能があった。それまではアリーと私に魔力の差なんてないと思ってた。…けれどいつの間にかアリーはどんどん先へ進んでって、私が彼女の背中を追いかけてた…。その頃はお互いほとんど喋らなくなってしまったの…。進級してアリーは学院のトップに選ばれたわ。明るくて、優しかったから、周りの誰しもが彼女の事を好いてた。私は…とても嫉妬したわ。どんなに頑張っても全然追いつかなかった。」
「卒業が近づくと、その学院では最終試験が行われるの…合格者は西の都ジュリアナで国王付属魔術師の研修が受けられるのよ。当時は研修生になれただけで人生の勝ち組とまで言われてたわ。結局、あの時ほど必死になった事は人生でなかったわね…。
そしてアリーも私も、二人とも受かった。発表直後、学校生活でまったく会話しなかった二人が、しがらみから開放されたようにお互い駆け寄って、泣いて抱き合ったわ。とても嬉しかった。
卒業した後はアリーと一緒にジュリアナへ行くはずだった…。けれど…アリーは降りたの…。私はものすごく怒った。何度も何度も説得しに行ったわ。だってそれは彼女の夢だったんだもの。いつかジュリアナで一番の魔女になるって…。私に諦めた理由を話してくれなかったのが余計につらかった。その頃から彼女の顔がどんどん暗くなっていくように見えたの。
私だけが研修を受けた。でも何故か全然身が入らなくて結局半ば途中で私も諦めてしまったの。もちろん周りからは大批判を浴びた。でも、わかってしまったの…私は…アリーがいなきゃダメなんだって。才能のない私がここまでやってこれたのはいつだってアリーの背中があったからだって。
月日が流れて、私はこの街で結婚した。女として幸せを手にしたの…ちょうどその時、物書きを始めたら、すごい勢いで本が売れてしまったのよ。どうやら魔法の杖よりペンを握ってるほうがよかったみたいね…。」
マダムの新作をアリーは毎回楽しみにしていた。アリーはいつも嬉しそうにページをめくり、部屋の本棚に誇らしげに立てかけては並べていった。
「ある日、魔女が運営する帽子屋があるって噂を聞いたわ…。アリーだった。彼女は魔法よりも帽子作りに夢中になってたわ…。もちろん最初は呆れてしまったけれど、久しぶりの再開をしたとき、この場所で二人ともすごく笑ったのを覚えてるわ。だって学院最高の魔女に選ばれた二人が、二人してまったく別の仕事をしてるんですもの…。
アリーは今でも夢を諦めた理由を話してくれないの…。でも私からそれを聞くのはもう野暮な気がする。いつか笑って話してくれる日が来るのを待ってる。もしかしたら彼女には何か大きな責任があるのかもしれないし…。」
マダムは思い老けた顔をして間を空けた。それからはっとしてジャンの方を見た。
「あら、私ったら今日はやけに喋っちゃったわ…。不思議ね。こんな事滅多に話さないのに…。あなたが知りたいのは今アリーがどこにいるかよね?」
「…お二人にそんな過去が。」
ジャンは魔女の懐旧談の余韻に浸り、アリーのことを想った。彼女のことを何も知らなかった。知ろうともしなかった。夢を諦めてこの帽子屋を始めた。どうして諦めなくてはならなかったのだろうか?
「たとえ才能があってもやめてしまえばそこでお終いなの。逆に…どんなに才能がなくても続けていれば何かが変わったかもしれないわ…本を書き始めて気づいたの。後者の私はそれすら出来なかった。アリーがいなければなんてただの幼い言い訳。私だって本当は…」
マダムは自身を憐むように言った。静かに手元を見下ろして薬指のリングを撫でた。
「ほんの少しの決断で人生はまったく別のものになる。けれど私は、今の幸せを考えると…何一つ間違ってたなんて思えないわ。なるようになったのよ。…大事なのはあなた自身で決めたかどうかなの。」
彼女はまっすぐな目でこちらを見つめた。
「アリーは東の国アルカホールへ向かったわ。あなたの病気を治す手がかりが見つかったのよ。」
ジャンは首を傾げた。アルカホール。リリィの国だ。そこは太陽の国だと聞いた。この病気を治す調合があるのだろうか?
「どうして…そんな遠いところへ。」
「決まってるじゃない?あなたを愛してるからよ。」
予想外の返答にジャンは言葉をなくした。
「アリーね、あなたが来てからはなんだかすごく楽しそうなのよ。子供ができたみたいで大変とか言いながら、顔はずっと生き生きとしてるの。」
居候の弟子。そう思われていると思っていた。血の繋がっていない他人。ましてや俺は悪魔だ。衣食住を保証してくれたのは等価交換として契約し、それなりに仕事を手伝っているからだと…。馬鹿だ。それで生活が成り立つわけがない。見ず知らずの子供を家に迎え入れ、温かいご飯を毎日作り、寝かしつけてくれた。初めて自分の部屋をもらった。本を読み聞かせてくれた。病気の時はタオルを何度も交換してくれた。沢山の魔法を教えてくれた。ずっと見守っていてくれた。
大切なはずの当たり前の日常が溢れ出てくるように思い起こされた。慈愛に満ち溢れていたあの日常こそ奇跡体験だったのではないか!
思春期を迎えたあたりからアリーに煩わしさを感じ、お互い店にいる時の会話も少なくなっていた。今さらになって思い出した。俺は…愛されていたのかもしれない。
「あなた…愛されてるのよ。」