夜の影帽子【29話】現れた魔女
ミラが去った後、リリィはしばらく海を眺めていた。手元のビンを拾い上げてコルクを外した。ビンの中に敷き詰められた灰を逃すようにゆっくりと下に傾けるとそれは少しずつ、少しずつ風に吹かれて消えて行った。
『生まれ変わっても悪魔になりてぇな。』
ジョーはそう言っていた。
「生まれ変わってまた会おうね。」
そう呟くと、灰は風に運ばれて海に消えていった。
待つという行為はあまり好きではないが、今はここで古い客を待ち続けなければならないのだ。奴は必ずここに現れる。そう確信していた。
「おったおった。まるで絵画のようじゃな。」
後ろから声がした。振り返ると、女が立っていた。
その出立はまさに妖艶な魔女そのものだった。肩まで伸びた黒髪に、整った目鼻立ち、せっかくの美女を怪しく見せるのは黒いカーテンのような衣服に、手には長いステッキと、肩にはカラスを置いているからだ。絵に描いたような魔女の姿がそこにあった。
カラスに見覚えがあった。ジョーの伝言もミラに届け物も頼んだりしたことのある、影帽子専属の召使いガラス。
リリィは鋭い眼光で睨み付けて、テレパシーを囁くように送った。
『裏切り者。』
カラスは慌てて羽を広げた。魔女は急に肩から飛び立たれて驚いていた。
「おお?どうしたのかのぉ。やはりカラスはもう駄目じゃの。ろくに言うことを聞かんわい。」
魔女はステッキをカラスに向けた。一言呪文のように悪態を放つ。
「しね。」
ステッキの先に炎が球体のように渦巻いた。火の玉が一直線に投げられたかと思うと上空のカラスに直撃した。黒い衣は一瞬で燃やされ炎を引きずりながら落下した。
「おお。久しぶりじゃが悪くはないのぉ。」
リリィはその瞬間を目に焼き付けた。この時世に一瞬で火種を作り出し膨らませ、それをあんなにも早く、遠くまで飛ばすことなどできる魔力が信じられなかった。古代の魔法をまともに使いこなせる人間を初めて見たのだった。
「さて…仕事の話しをしよう。まずはその美しい瞳の青を、わしの近くでよーく見せてくれぬか?」
魔女はリリィに顔を近づけた。顎を滑らかな手つきでなぞるように触れ、彫刻で作られたようなシンメトリーな女の顔が目の前にヌッと現れた。
「はて…泣いていたのか?」
気持ち悪い所作に恐怖を覚えた。震えそうな体を堪え魔女から静かに体を突き放し、距離を取った。
「そう恥ずかしがらんでも、ワシはもう女だから構わないだろう?…ふはは。可愛い女子じゃ。」
「ターゲットは殺したわ…。ジャンと…それからジョーも。」
「よくやってくれた。これで邪魔者は消えた。これから影帽子に本を取りに行くのじゃが…お主も一緒にくるか?」
「別に殺さなくても本は奪えたんじゃなくて?」
「何を言っておる?お主がジャンを殺したがっておったのだろう?まぁどちらにしても逃がしておけん。肉体を入れ替えておったからお主に任せたわけじゃが…ようやくこの体に慣れてきたわい。…やはり女の体は落ち着かんのぉ。」
魔女は首や肩を回して気怠そうな顔をした。リリィを見つめて笑った。
「これでまた…街が綺麗になったの。」
リリィは目を瞑った。すっと息を吸って吐いた。落ち着け。怒りだけに身を任せるな。失敗を呼ぶ。
「戦え」
黒魔術の長い呪文を唱え始める。リリィがぶつぶつ言い始め、魔女は目の前の声に耳を傾け、呆然とした。
「リリィお主…魔法など。しかもそれはわしの作った呪文ではあるまいか?」
「黒魔術第二十四章【人間収穫】」
唱え終わると同時に、右手に身の丈ほどの巨大な鎌が現れた。黒光りする嶺は三日月のような曲線を描き、刃先が純銀のように太陽の光りを反射した。
「わしの大鎌…何故本がないのに出せる?」
目を閉じたままリリィは試すように鎌を振り回し、華麗に操った。魔女は眉をしかめた。
「貴様、一体誰じゃ?」
「私は…」
その目は開かれた。紅に染まっていた。
「私はジャン。ジャン・フランクリン。」
金色の髪がなびいて、二つの赤い太陽が標的を直射する。
「お前の死神だ。」