夜の影帽子【31話】生きる
海面の光がどんどん遠ざかっていく。リリィは水中で仰臥しその身体はみるみる下へ沈んでいった。息ができない。海水の温度が彼女の体温をみるみる下げていった。
自由はきかないものの普通の状態ならまだ這い上がれたかもしれない。苦痛が体中を駆け巡り、重りがついたような疲労困憊だった。肉体に憑依してすぐの急激な運動に、魂が拒絶反応を起こしている。これが奴の言う「地獄」のことだろう…。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか?私が一体何をしたというのか…。親友を探してただけなのに…。女を助けたら騙されてて、親友を殺されてて、自分も殺されそうになって、気づいたらその女になって死神と戦って…挙げ句の果てにまた死にそうになってる。
普通に暮らしてただけなのに…。どうしてこんなつらい思いをしなきゃいけないんだろうか?
視界も思考もぼんやりしていた。どんどん意識が遠ざかっていく…。せっかく生き返ったのに、チャンスを逃してしまった。悔しくてたまらない。けれどもうどうしようもできない。水の中はこんなに重くて、苦しくて、暗い孤独だ。今度こそ本当に、本当に…「死」
『ようこそCHINEMA HEAVENへ!』
パッと目を見開き、泡を吐いた。意識がはっきりし、海中で足掻いた。
(あの野郎、嬉しそうにしやがって…)
駄目だ。死んでたまるか!生きろ!生きるんだ!死んだ分まで生きるんだ!!
(息がまた…。)
リリィは一か八か自分の体に魔法を念じた。
手の指の間にヒダのようなものが生やし、水かきのような手になった。そして足を重ね合わせて尾びれに変形させた。
(使える!この体でも魔法が使える…!)
魚のように優雅に泳ぎだした。上へ。上へ。 (息がもう…!急げ…!)
海面でバシャっと浮上した。外の世界は明るかった。
桟橋に停車した小さなイカダにしがみつきようやく海から這い上がった。イカダの上でびちょびちょに濡れた体を仰向けに、何度も何度も呼吸をした。イカダに体がべったり張り付いたようだった。
快晴の空に浮かぶ真っ白な太陽。今までただの凶器でしかなったけれどこんなにも眩しくて温かい。
「やった生きてる…。生きてるよ…。」
ほんの少し眠ってしまっていた。人々が埠頭に群がってきた。怪訝そうに目を向ける女達、興味津々で見続ける男達。こんなずぶ濡れの美女が朝のイカダの上で眠っていたのだから白い目で見られて当然だ。濡れたせいで服の上から乳房が浮き出ているのが分かる。これはまずい。リリィは胸の辺りを隠した。すると聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「ちょっとぉぉあんた!!朝っぱらからそんなとこで誘ってんじゃないわよぉ!!とっととうちのイカダから降りなさいよぉ!」
ボッダだった。しかし昨日の夜とはまるで印象が違い、胸つきズボンを着て、顔に化粧もなく、正真正銘の海の男の姿であった。彼は漁師だったのか。
「す、すいません。今出て行きます。」
リリィは体を起こす。その瞬間、電撃のように猛烈な痛みが走った。
「いっ…!」
ボッダは首を傾げてこちらの様子を伺うと、近づいてきて手を差し伸べた。
「もしかして立てないのぉ?ほら捕まって!」
ボッダの手に捕まり、そのまま身を委ねた。
「ったく!こっちは仕事で疲れてるってのに…飲み過ぎよあんた!家はどこ?」
「三番街の影帽子…です。」
「あら。もしかしてあんたがアリー?」
「送ってくれると助かります。ボッダさん。」
「あらまぁ!それはそれは。てっきり人魚かと思いましたわ。ジョーさんからお話しはしょっちゅう!まさかこんなに若くてお美しいとは…(チッ…!」
ボッダの舌打ちを気に留めずに彼の肩を借りてそのまま影帽子に向かった。