夜の影帽子【30話】決闘
青い海の前で赤い女が身の丈ほどある黒い鎌を悠々と振りかざす異様な光景に魔女は笑いが込み上げてきた。
「わしの鎌でわしの名を語りおって…」
魔女は顔面を裂くように口角を上げた。
「そのおなごに恋をしたのだな!わしと同じように【人間失格】を唱え憑依したと!なんとも愉快じゃ!」
「そう言うお前は今の奥さんだよね?それって同意だったの?」
「やはりわしの正体を知ってるな。無論じゃ。彼女はわしの中で永遠に生き続ける。これこそが本物の『愛』ではないか。」
「そんなのは『愛』じゃない。三〇〇年も生きてそんなことも分からないの…?」
「調子にのるな小僧。慣れないその体で何ができる。…地獄が待っておるぞ?」
「それならもう見てきた。お前には『死』が待ってる。覚悟しろ。」
「かっこつけよって、本なくとも貴様を殺すなど魔法でたやすいわ…。」
ステッキに再び火の玉が作り出されたその瞬間、リリィは魔女めがけて全速力で走る。体は翼が生えたように軽かったが裸足は走りにくいし、付着した胸がまどろこっしい。
両手で鎌を横に振りかざして振った。斬りかかるというよりは殴るように全力で叩いた。
嶺の曲線が魔女の肘に強打した。その瞬間に炎が飛び散り、リリィの体に至近距離で爆発した。身を挺して距離を取る。少し火傷を負ったけれど魔女も鎌を防いだ腕の骨を粉砕していた。だらんと垂れる左腕に苦い顔をする魔女、再びステッキをこちらに向けた。炎は灯さず次に何をしようとしているか分からない。ステッキの指す直線上を避けるように蛇行し再び魔女に近づこうと乱れながら走った。
急に体がビタッと止まり動かなくなった。後ろを見ると海水から円柱のように浮上した水流がまるで蛇のようにうねりながらリリィの体に巻きついていた。
「くっ…!」
リリィは黒魔術を唱え始めた。魔女はステッキを動かして、巻きついた水を口の中にも枝分かれさせようとしていた。黒魔術は術式が長い上に、何度も噛みそうになった。それでも早口で唱え続ける。
(間に合え…!)
水が口を塞いだと同時に術式を唱え終えた。
「黒魔術第二十一章【人間椅子】」
リリィの姿が途端に消えた。水蛇はただの海水に戻り地面にバシャンと落ちる。魔女には当然この魔術が分かる。リリィは透明になったのではなく、実体そのものをなくす黒魔術だった。
魔女は再びステッキの先に火の玉を作り、注意を払いながら海沿いへ近づいた。死角を作らないために海を背にして辺りを見渡す。静かな港の風景に異質な緊張感が漂う。
魔女は不思議で仕方なかった。何故本も見ずに術式が分かる?奴はまさか、本に記録された黒魔術三十章全ての術式を暗記しているというのか?作ったわしでさえ【人間解凍】の術式しか記憶していない。最弱魔法しか使えなかった未熟な魔法使い風情が…
「そんなことがあってたまるか!」
【人間椅子】は物理攻撃が当てられないが、それは術者も同じ。向こうも攻撃をするには近づいて魔術を解き、姿を見せなければならない。奴はあのまま影帽子まで逃げる可能性もある。じきに魔術も解ける頃合いだ。見つけ次第火あぶりにしてくれよう。
そのとき突然、魔女の視界が火の塊で覆われた。突然降り注いだ燃え盛る黒い物体が、翼を暴れさせて、鋭い爪で魔女にまとわりついた。焦げた死肉の臭いが漂う。魔女はパニックになり片腕でステッキをぶんぶり振り回した。
「さっき殺したカラスではないか!何故死んでない!失せろ!!」
火の中から拳を構えたリリィが現れた。
「解凍してんだよ。」
全身全霊の力を込めた一発、容赦なく魔女の顔面に喰らわせた。魔女は吹き飛ばされ後頭部から地面に叩きつけられる。
先代のリリィの圧倒するほどの筋肉。しかし人を殴る感触は初めてで戸惑った。不快きわまりない上に、拳に痛みが走る。
震えながら半身を立たせた魔女は、血で染まった口元から弱々しく息を吐き、怯えた表情でこちらを見上げた。老婆のように老け込んで見えた。
「や、やめて。殺さないでくれ。」
近づくと、尻餅をつきながら片腕で後退りし始めた。
「もう十分生きたでしょ?」
リリィは再び鎌を出現させ、魔女の首元で止めた。後頭部に内向きな刃を少し引けば首が飛ぶような位置にかざした。
「さよなら死神さん。」
「取り引きじゃ!ジョーを生き返らせてやる!」
「嘘だ。」
「嘘ではない!【人間解凍】を永遠にかけ続けるやり方をワシは知っておる…!」
「ジョーは燃やされて死んだ。肉体はない。」
「べ、別の容れ物を用意すればよい!死体を…ワシの前に…ひぃッ!」
「それじゃあんたと一緒じゃないか?「死」はせっかちなんだ…。喰いしばれッ!」
鎌を引こうとしたその瞬間、真横から衝撃波のような突風がリリィの体を遠くまで突き飛ばした。リリィは海面に落とされた。
「っ!!」
「ふ、ふはははは!風の魔法も見えまい。」
魔女はよろよろ立ち上がり、海に落ちた彼女を見下した。
「くそぉ…」
器用な魔女だ。時間を稼ぎやがった。話しながら風の魔法を一点に集めていたのだ。
あの一瞬、躊躇してしまった。暴力とは縁のなかった私が、こうして戦って人間の首を切るなど、憎むべき仇とは言え、怖気付いてしまったのだ。人間を殺すという感覚…。鎌を引こうとした刹那、血生臭い地下室の臭いを感じて、吐き気がした。あれと同じような残虐な行為をしようとしているのがひどく恐ろしくなった。
「何を今さら。次こそやってやる…!」
不敵に微笑む魔女は折れたステッキをこちらに向けた。
再び水の蛇が海面から顔を出してリリィの息継ぎを阻害してくる。水の蛇は何匹も顔の周りをうねっている。魔女の魔力が尽きたのか弱い水圧であるものの、リリィを溺れさせるには十分であった。
魔女はステッキにまたがった。そして宙を舞い、みるみる上昇して街の方角に体を向けた。
「空飛ぶホウキだったのか!しまっ…」
海面で必死に足掻いた。海の中は初めてだ。こんなにも冷たいのか。泳ぐのもままならないほどに全身に筋肉痛が走り、潮水が火傷に滲みてきた。足掻けば足掻くほどに体が重くひきづられていくようだった。
「逃さない!」
次こそ殺す!地獄に行ったとしても!水面から手を伸ばした。魔女はすでにふわふわと街の方角へ飛んでいった。まずい。
「待て…待てよぉぉ!!」
待つわけがないのだ。あと一歩のところで逃げられた。躊躇しなければ首をはねれたかもしなかった。空にいる魔女がどんどん小さくなってゆく。…溺れる。
「くそぉぉぉぉぉぉぉ!」