夜の影帽子【32話】私はどっち?
猫人間達の拍手喝采で目が覚めた。会場は黄色い声援で満たされて、花束が投げられた。観客席全員がスタンディングオベーションで、群衆が同じ笑みを浮かべて拍手しながらリリイ目掛けて走ってきた。おぞましい悪夢だった。
「お前達に二度と会いたくなかったのに…」
ベッドの上で一人文句をたれた。今朝は起きても涙が止まらなかった。断じて感動のフィナーレの涙などではない。しかしまだ夢の中の方が楽だったのかもしれない。そう思ったのは、起きてからすぐにこれまでの現実が思い起こされて、朝の弱ったリリィの心をズタズタにした。悲しくて切なくて仕方がなかった。一夜にしてたった一人の親友とジャン・フランクリンの体を失ったのだ。とても信じられなかった。
まる二日間眠りっぱなしだったようだ。疲れも痛みも癒えたけれど、頭痛がひどく、起きても横になるしかできなかった。細くて、冷たくて、敏感な身体をシーツの中で自身を抱きしめる。母親のお腹の中で眠る胎児のようにうずくまった。
シャワーを浴びて、裸のまま部屋の鏡の前に立つ。青い瞳の彼女がいる。濡れた手で顔から体のラインに沿うようにゆっくりなぞった。首元はジャンの噛み跡がほんの少しだけ残っている。真っ白な胸は柔らかくてほんの少し動いただけでぷるんと揺れた。お腹に軽く火傷の跡が残っている。これはじきに消えるだろう。くびれが綺麗な曲線を描き臀部へと滑らかに繋がっている。脚は透き通るほど白く細くてまるで店のマネキンになった気分だった。
「本当にリリィになってしまったのか。」
これが自分の姿とは信じられないし、とてもあの残虐な悪魔狩りとも思えない。例えばモデルの仕事だけでも食べていけるのではないだろか?
しかしどんなに美しくても、二十年もの間苦楽を共にした身体ではないのだ。本来の肉体は目の前で燃えてしまった。それに絶望をしたのは一度トイレで目覚めた時だ。あのグロテスクな記憶も思い出し、何度も吐いた。喉も胃液も枯れ果てた後に流した涙でさえも足りなかった。まるで別の生き物に生まれ変わってしまったのだ。
「これからどうするの?」
鏡の中の彼女が聞いてきた。
「探すよ…。街中を。」
「もう遅いんじゃないかしら?」
「それでもやらなくちゃ…。」
アリーの服を借りて家を出る。仕方なく下着もアリーのものを身につけた。サイズが合わなくて落ち着かない。ブラジャーを付けるのに手間取った。まさか外すより先に着けることになるとは思わなかった。
あいも変わらず街は平和そのもので、私の出来事を風化させるかのように賑わっている。リリィは人目を避けるように歩きながら思い返した。
CHINEMA HEAVENでジョーと再開した場面でジャンは彼を説得できないまま幽体離脱してしまい影帽子の天井からしばらく二人の様子を眺める羽目になった。あの時、店に現れたのは
ぺぺ爺だった。
ぺぺ爺はアリーの魔法を買いに来たようだが、テーブルに置かれた本を見るなり、急に顔色が変わりジョーに食い入るように尋ねていた。
「そ、その本は誰のじゃ…!?」
「この汚い本か?そりゃジャンのだよ。どうしたぺぺ爺?」
ぺぺ爺の顔に喜色が指したように見えた。鼻息が荒れ、髭の下で口元が動いた気がした。皺皺の拳をぐっと握り、何かを堪えきったように二人に背中を見せた。
「アリーもおらんし、今日は帰るとするかのぉ…。」
「いいのかよ。明日からアリーはいないんだぜ?こいつは今使えねーし、起こしに行ってやろうか?」
「わざわざ起こすほどではないわい。好都合じゃ…。しばらくは若手の世話になるとするかのぉ…ふぉふぉふぉ。」
ぺぺ爺は扉を閉めて出ていった。ジョーは訝しげにドアの方を見た。
「変なじいさんだなぁ…。」
ジョーは大きく欠伸をして、トランプを散らかしたまま、座って眠りについた。
ぺぺ爺はずっと私たちを悪魔だと分かって、嘘をついていた。ぺぺ爺は一人目の魔法使いであり、死神のJOKERであったわけだ。海で戦ったあの時、魔女の中身がぺぺ爺かを知るのが怖かった。ぺぺ爺は初めてジャンの魔法を認めてくれた最初のお客さんだった。
行き先は決まっている。ぺぺ爺の住む家だ。黒魔術の本を肌身離さず持ち歩いて向かう。
私を海へ落とした後、魔女はあのまま影帽子へ向かったと思ったが、店や部屋が荒らされている様子はなく、本はいつもの場所に隠してあった。おそらく相当弱っているのだ。そして私が溺れて死んだと思っている。今こそが奴を殺す絶好のチャンスだ。
「大丈夫…大丈夫…私ならやれる。」
何度も何度もそう言い聞かせ、胸に手を置いて歩く。あの日酔っていたとは言え、本が見つかったのは私のせいだ。そしてジョーが死んだのも…。黒魔術で犠牲になった何千人もの鎮魂のためにも責任を持って今度こそ私が奴を殺す。
本を握りしめてぺぺ爺の住む家に向かった。
そこは街の外れにある小さな古屋であった。人気がない殺風景な荒地にポツンと立っている。鼓動がみるみる激しくなっていく。再び戦うことになるかもしれない。
扉の前に立ち、その家の禍々しい雰囲気を感じ取った。少し躊躇したが、ドアノブに触れて回すと軋んだ音を立てて開いた。
「鍵が開いてる…。」
警戒しながらゆっくり押した。罠を仕掛けているかもしれないから神経を研ぎ澄まし静かに潜入する。
暗くて陰湿な家の中は人の気配がまるでなかった。ぺぺ爺は奥さんと二人暮らしだ。私は知らないが、ジョーいわく歳の離れた絶世の美女だそうだ。魔女がいたとすればぺぺ爺が【人間失格】で憑依した妻であり、彼がペトロロス・ペンタゴンだと確定する。
リリィは家の中を進んだ。外光を閉ざした一軒家の中心は夜のように真っ黒で怪しかった。恐れながら進むと、ほんの少しドアが開かれ光が漏れている部屋を見つけた。ろうそくの灯火だ。誰かがいる可能性が高い。リリィは抜足で静かに近づき、隙間から覗いた。
そこにいたのは確かにあの魔女だった。ただ…白い顔をして仰向けの状態で倒れていた。
ドアを開け放した。魔女は死んでいた。半目で口を開けていた。なんとも不気味な死顔に気分が悪くなる。臭いはしない。死んでからあまり経過していないのではないか?ろうそくの灯りが下に置かれた死体をゆらゆらと照らしている。身体は青白く、まるで全身の血を抜かれたようにみえた。
魔女の死体の傍に一枚のトランプカードが落ちている。ガイコツが大鎌を携えた「死神」のJOKERであった。
魔女は…殺されたのだろうか?だとしたら犯人は魔女の正体を知っている人物なのではないか?そんな人物が果たしているのだろうか?
リリィは身の危険を感じて早々に家を出た。部屋の薄暗さとうってかわって西日が眩しかった。
湧き上がってきたのは安堵であった。親友の仇であり、殺す使命を課せられ戦った相手が、誰かの手によって殺された。衝撃の光景だった。しかし手を血で染めることなく、ペトロロスは死んだ。何者かがあまりに長く罪深いその生涯に終止符を打ってくれたのだ。こんなにありがたいことはないではないか!暗殺者も依頼主も死んだのだ。これでようやく私は平和に暮らせるのだ!
リリィは言い聞かせた。ふに落ちない感情を無視し続ける。石畳の上をコツコツと鳴らして足早に歩き続けた。そして呟く。
「誰が…」
リリィは奥歯を噛み締めた。突如として怒りが沸き上がり、それはとうとう押されきれなくなった。思わず傍の壁を思い切り殴った。壁の砕ける鈍い音が骨に響いた。
「誰が私の獲物を殺しやがった畜生!!!!」
壁は陥没し、穴ができた。殴った拳は血で染まり皮がめくれていた。その血の色を見て、リリィは我に帰った。息を切らして。そっともう片方の手で赤い拳を優しく包み、しばらく立ち尽くした。
「……今の…どっち?」
ジャンだ。自我の意思で怒りに身を任せただけだ。完全憑依した状態でリリィが意識に介入するわけがないのだ。あの時、確かに彼女の魂はジャンの肉体に入っていた。
不気味な程に綺麗な夕焼けは空を燃やしたようで、道で引きづられたリリィの影を長く伸ばしてた。影を振り切ることができないリリィは影帽子へ走った。走りながら再び涙が込み上げてきた。これは沈んだ太陽の匂いなのだろうか?声を上げたいほどの赤い寂しさが顔を覆ったようだった。
「アリー。早く帰ってきてよぉ…。」