夜の影帽子【27話】海を見つめて
港を離れた蒸気船が汽笛を鳴らした。カモメを上空を舞い、無数の銀の光が海面で飛び跳ねた。埠頭では野良猫が漁師達を待ち始め、その下でフナムシがそわそわと蠢きだした。
長い長い夜明けを終えた。今までのことが嘘のように静かに海がキラキラ輝いている。生まれて初めて見る澄明な海の景色に嫌悪感を抱きそうだった。真っ白な素肌を陽光が照りつける。病気を克服した喜びなど微塵も感じることは出来なかった。彼女はしゃがみこみ、海に向かってただただ泣いた。すると背中に柔らかく何かが触れた。
「どうしたの?…お腹痛いの?」
聞き覚えのあるその声に顔を上げた。よく知る少女が横で背中に優しく手を置いて立っていた。
憂色な顔が近づくとリリィは思わずたじろいでしまい、何も言えずに次に少女が何かを言うのを待った。
「ねぇ…大丈夫?」
きっとひどい顔をしていると思い、涙を拭い、浅く息を吸って吐いた。少女は目の前にハンカチを差し出した。
「これで拭いて。」
ハンカチには黒猫がいた。私の作ったものだ。
クロ。どうかこの子を守ってあげてね。
しばらく見つめて少女にそっと返した。
「あ、ありがとう。…でも大丈夫。た、大切な物なんじゃない?」
緊張して、うまく舌が回らなかった。
「うん。だけど…。おねえちゃんはどうしてここで泣いてるの?」
ミラ…。どうすればいい?君のことをよく知っている。けれど君は私のことを知らない。それでいいんだよね?このままで…いいんだよね。
「な、何でもない。大切なものを失くしてお別れを言えなかった。」
ミラは物悲しい顔になった。
「そうだ!」
すると何か思い出したようにハンカチで顔を覆い、鼻で深く吸いだした。あの魔法は消えていないようだった。クロの匂いを一心に嗅いで、のっぺらぼうは顔を出した。悲しげだった顔が布一枚で変化するマジックのように元気な笑顔を見せた
「あのね!この街で何か困ったことがあったらね、三番街の外れに「影帽子」ってお店があるの。きっとジャンが助けてくれるよ!」
意外だった。その言葉に喜べないのが悲しかった。明かせないのが悲しかった。
ミラと最後に会った夜。喧嘩別れだった。もう怒ってないのだろうか?許してくれてるのだろうか?…目の前にいるのに気持ちを伝えられない歯痒さを感じた。あのときはごめんと伝えたかった。気持ちとは裏腹に私は最後まで素直になれなかった。
「あの店には二度と行っちゃ駄目。あれの正体は…悪魔だから。」
ミラはこちらを見て目を丸くしたが、海に向き直って微笑んだ。風が二人の髪を揺らした。
「うん…知ってる。」
「え?」
「初めて会ったとき目が赤くなってた。最初は怖かったけどとても大切な宝物を作ってくれたの。だからお店に行ったんだけど…ジャン、よだれ垂らしてイスで寝てて、なんか全然怖くなくなっちゃった。」
滅多によだれを垂らすことなどないのにそんなときに限って見られてしまう。しかも営業中にうたた寝とは…。無防備というか、隙だらけというか、ミラが生意気だったのはそんな醜態を晒してしまったからだろう。赤い目にしたって逆によく十年もお客に隠し通せたものだ。こんな悪魔は初めてだと言われたのにも納得する。
「おねぇちゃんの大切なものってなんだったの?」
ミラは真剣な顔で聞いてくる。リリィは少し考えて伝える。
「…大切な友達だよ。突然いなくなってしまって、さよならも言えなかった。」
遠くに船が小さく見えた。水平線に沿うようにゆっくりと動いている。近くで見たらどれくらい大きいのだろうとぼんやり疑問が浮かんだ。
「一緒だね…。」
ミラはハンカチに目を落とした。
「私もね、さっきまでずっと泣いてた…。そしたら夢の中でね、ジャンが話しかけてくれたの。死んじゃった猫と一緒にいて、クロがありがとう。ありがとう。って何度も何度も言ってくれた。」
「そっか…。」
きっと偶然じゃないと思った。夢を通してクロの気持ちは確かに届いたんだ。あの映画館は何だったのだろうか?本当に私だけの幻想世界なのだろうか?
「おねぇちゃん一人で帰れる?これからどうするの?」
ミラは心配そうな顔で尋ねた。
「もう大丈夫。あなたと話して少し元気でたよ。」
「そっか。…ふふ。なんかおねぇちゃんと初めて会ったって気がしないなぁ。」
「前にどこかで会ってるかもね。ミラは今日はお休み?」
ミラはハッとした表情になった。
「今日から学校なの!帰って準備しなくちゃ!あぁ、修行もしなきゃいけないし…もういくね!」
「しゅ、修行…?なんの?」
そう聞くとミラは誇らしげな顔をした。
「ま・ほ・う! 渡された師匠の本が難しくて全然進まないのー!」
リリィはぷっと吹き出した。『師匠』などと私の前で一度も呼んだことないくせに。
ようやく学校に行き始めたんだね。魔法もやってくれるんだね。
「なんで笑ってるの!?」
「いってらっしゃい。ほーら遅刻するよー!」
「もーう!じゃあね!気をつけてね!ばいばーい!」
ミラはぷくっとした顔を見せて元気に街の方へ駆けてゆく。すると離れた所から彼女は立ち止まって振り返った。
「ねー!どうして私の名前知ってるのー!?」
彼女はこの街でこれからも幸せに暮らすだろう。魔法に触れながら、時々でいいからジャンのことを思い出してほしい。
私は叫んだ。自分が発したのにまるで違う人の声に聞こえて変な感覚だった。
「自分で言ってたよー!!」
そうだっけ?と呟いたのだろう。彼女は首を傾げた。前を向いて走り去っていく彼女の背中を見えなくなるまで見つめた。
もちろん私は可愛い弟子のことを一生忘れないよ。
「ありがとう。ミラ。」