今夜ユウノカリイショ

エッセイや小説を投稿いたします。拙いですが、よろしくお願いします。

夜の影帽子【20話】群衆の恐怖

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 目の前の観客席では猫人間の群衆が野次を飛ばしている。その声は猫でも人間でもないが、ただ何かを大声で訴えているのが分かる。中にはジャンを待ってましたと言わんばかりに興奮して煽ってきている連中、手を叩いて笑い飛ばす連中もいた。

 聞くまでもない。目の前にいるこいつらの仕業だ。

「お前ら何してんだ!」

叫んでも暴風雨のような声達にかき消された。

「ジャン。痛みはないから大丈夫。…もう死んでるからね。骨折れちゃって立てないだけなんだ。」

 クロは微笑むが、無理して繕っているようで居た堪れなかった。表情の奥で必死に耐えているようだった。

 痛覚がなくても痛かったはずだ。こんな大きい生き物達に囲まれて虐待を受けるなどどれほどの屈辱か計り知れない。怖かったはずだ。悔しくて仕方ないはずだ。

「なんなんだよこいつら!何がしたいんだよ!」

「彼らはもともと人間だったんだ…。この街で…自殺した人達なんだ。」

 信じられなかった。自殺した人間がこんな乱暴な真似をするだろうか?

「天国に行くんじゃないの?」

「この世界では…罪なんだ。…自分を殺めてしまったからね…。中途半端な姿に変えられて、天国にも地獄にも行けずにただ狭間をさまようんだよ…。生前の記憶も人間性も徐々に失いつつある。だから彼らはこうして天国にいけそうな映画を邪魔してるんだ…。たぶん彼らは過激な作品を期待してたから怒ってるみたい。君が今、あまりに幸せそうだったから…。」

「だからって…なんでクロがこんな目に!」

「僕は…不吉だから。黒猫なんかが天国に…行こうとして…それで…」

 クロは腕の中で虚ろな目を少しだけ開き、ぐったり垂れた。嘆かわしいその姿にジャンは思わず自分と重ねてしまった。不吉な異端者と正義を主張する多数派。異端者達は見つからないように静かに影の中で暮らしていた。ただそれだけなのに…。お前達の主張こそ邪悪そのものじゃないか…。お前達だって生前は社会に踏みつけられ、傷つけられ、剥奪され、孤独になり、絶望の中で決意し首をくくった。誰よりも少数の弱者の気持ちを知ってるはずなのに…なのにどうしてこんな…。

 目頭がたちまち熱くなった。ジャンは訴える。

「なんでそっち側の人間になってんだ!!一番なりたくなかったはずじゃないか!?人を蹴落として、傷つけて生きるくらいなら自分で死んだ方がマシだと思ってたんじゃないのかよ!!」

 それでも悲痛な叫びは彼らに届かなかった。クロの声までも聞き取りづらくなるほどに奴らの罵声が頂点に達した。汚い言葉で唾を吐きかけるような野次は重なり、集合し、巨大な生き物を前にしたようだ。ほぼ全員が罵り、挑発している。空き缶がいきよいよく飛んできてジャンの頭に当たった。ジャンの怒りは膨れ上がりついに爆発した。

 

「うるせぇぇ!!!ぶち殺すぞッ!!!!」

 

 それは稲妻のように、悪魔の咆哮が館内に響いた。突発的な凄まじい爆音に誰もが静まりかえり、肩を竦めた彼らの視線がひと処に集まった。本能を剥き出して構えたその形相は煉獄のように真っ赤に燃え、灼眼は血を流し、飛び出した鋭利な牙が唇を裂いた。彼らは全身から殺気を感じて硬直した。声が出せなかった。そこにいたのは一匹の怒り狂う悪魔だった。

 どうやら効果はあったようだ。猫人間はこちらを黙って伺っている。生前でもこんな大声は出したことがなかった。そもそも死んでいる奴らに対して「殺すぞ」は矛盾している。いまに笑いの嵐が吹き荒れるのではないだろうか?

「それなら全員八つ裂きにしてやる。」

 怒りに震えながらもジャンは違和感を感じた。静かすぎる。彼らの声と共に消えた、聞こえていたはずの音…。その欠如を探すようにジャンは辺りを見回した。

 そうだ。映画の音声がない。そう気づいたときに、背後から視線を感じた。後ろを振り向くと、青年が見つめていた。それはよく知る自分の顔だった。スクリーンの中のジャンが唖然とした表情でこちらを見つめていて、二人の視線が重なった。

 向こうのジャンの手元には黒い本が、テーブルには黒い獣が置かれていた。…あれはクロ。そしてテーブルの向こうに座っている少女はまぎれもなくミラだった。ミラも猫人間たちと同じように怯えた表情でこちらを見ている。

 それはまるで写し鏡のように、横たわる黒猫を前にした青年がこちらを振り返ることにより、現世の肉体が黄泉の魂に呼応した世紀の瞬間であった。クロとジャンによる視覚的シンクロはお互いの視線が交わった瞬間に完成し、時間を止めた。客席の猫人間は恐怖に支配されていたが直後に恐怖の支配主が創り出した一種の芸術的調和に類稀なるカタルシスを覚えた。群衆は自身にも理解しがたい涙を流し始める。彼らも困惑していた。

 ジャンはスクリーンを見つめたまま少しづつ理解した。

 そうか。さっきからずっと背後で流れていた映像は戻る前のシーンから続いていたのだ。あの日、マダムステラが帰った後に初めてミラが死んだクロを抱いて影帽子にやってきたんだ。だがそれにしても俺はなぜこちらを見ている?こちらの声が聞こえたのか?あのとき現実でも同じことが起きた。同じ時に、同じ言葉が放たれた。

「あれは…やっぱり俺の声だったんだ。」

 スクリーンは幻想世界。この映画自体あくまで過去を再現したものにすぎないのではないのか?もしも今、俺が怒鳴らなければ未来は変わっていた…?本物の現実に介入してしまったというのか?時間が矛盾している。

「ほら…君が怒鳴るから、呪文が途中で終わっちゃった…。」

 クロは弱々しく口を開いたが、声の嵐が止み今度はしっかりと聞こえてきた。今にも消えてしまいそうなか細い声だ。

「…だから僕はこうしてずっとさまよってしまったんだ。」

「どういうこと?」

 頭の中が混濁した。

「魔法があるのならこんな不思議なことだってあるにゃ。」

 クロはミラと似たようなことを言った。もしかして、あの時中途半端に【人間解凍】を唱えたことで、クロの魂は天国に向かう途中で呼び戻されてしまったっていうのか…?。どちらにもいけずにこんな冷たい世界で…俺がここに来るまで、ずっと独りで耐えていたのか…?

「そうか…そういうことか。俺のせいで…ごめんクロ…。ごめんよ。」

 透明な涙が出ていた。それは頬を伝いクロの体に落ちた。毛並みの上を雫が弾いて徐々に染み込んだ。

「これでよかったんだ。…この世界のことも、君のことも知れた。何よりも…君は僕の分身を生んでくれた。」

「それって…。」

「君の作ったクロが…ご主人様のそばにずっといるにゃ。君はそうおまじにゃいをかけてくれた…。」

「そうか…無駄じゃなかったんだ。」

 スクリーンの前で膝をついたままジャンは顔からもたれた。クロの体はあのハンカチと同じ匂いがした。…こうしてはいられない。再び抜けた力を戻した。クロを両手で抱き上げ、ゆっくり立ち上がる。

「クロ…行こう。」

「にゃ?」

「ミラのところに!」

 ジャンはクロを抱いたままスクリーンへ急いで振り返った。早くしなければミラがクロを抱いて出て行ってしまう。店を出たら俺の体じゃ追いかけられない。

「でも…そんにゃことしても」

「後悔するって君が言ったんでしょ!」

「…そ、そうだったにゃ。」

クロはぐったりと静かに微笑んだ気がした。

 いきよいよく飛び込む。水の波紋が包み込むようにして二つの体を吸収し、スクリーンが膜のように揺れ動いた。再び映画の世界へ入っていった。

 映画の音声が再開した。残された猫人間達は呆然と立ち尽くす。生きていた頃の記憶を思い出そうとしていた。それは愛情だったり、希望だったりとありきたりな言葉で、きっとかけがえのない大切なものだった。