夜の影帽子【プロローグ】海を見つめて
港を離れた蒸気船が汽笛を鳴らした。カモメを上空を舞い、無数の銀の光が海面で飛び跳ねた。空気を震わす重低音が生き物達の一日の始まりを告げる。
波は待機中のイカダを揺らし、風は潮の匂いを街中に届ける。海沿いの建物に住む人間達ももうじき目覚めることだろう。しかしそんな中、今まさに一つの生物が終わりを迎えようとしていた。
潮風に混じる焼けただれた灰の臭いに気づいた者は誰一人いない。そう、彼らにとってそれは何の変哲もない朝だった。
埠頭の切れ端、海を一望できるもののそこはひどく寂しい場所だった。早朝に訪れる者などはいない。けれど彼女はそこで、蹲っていた。海に向かって泣いている金色の髪、真っ赤なドレス、しゃがみ込み膝に顔を埋めているが誰もが美女を想像するにはたやすかった。港には異質な彼女を陽光は構わず照りつける。そんな彼女に近づき、そっと小さな手を差し伸べた一人の少女、ミラ。
幼い彼女の目にもその背中はこの世の悲しみだとか、寂しさ虚しさを凝縮したように映った。せせり鳴く声の正体をミラは辿ってきたのだった。
「…どうしたの?…お腹痛いの?」
ミラは声をかけた。彼女の顔が上がり、二人の目が触れ合ったとき、金色の髪が風でそよいだ。ミラはその女性を綺麗な人だと思った。やはり泣いていたようだが彼女はミラの顔を見て動揺しているように見えた。充血したその瞳は赤みを除けば南国の海を連想するほどに透き通っていた。ミラは心配そうに背中を摩る。
「ねぇ、大丈夫?」
再び尋ねた。彼女は鼻をすすり、涙を手の甲で強く拭った。その所作に子供ながら少し違和感を覚えたがミラは気に留めずにハンカチを差し出した。
「これで拭いて。」
無地の手のひらサイズの一角には黒猫の刺繍が施されていた。彼女は涙を拭わずにそれを両手で広げてしばらく見つめた。そして丁寧に畳み直してミラに返した。ようやく彼女は声を発した。
「あ、ありがとう。でも大丈夫。た、大切な物なんじゃない?」
初めて聴いたその声はどこか戸惑ってる様子だった。
「うん。だけど…。おねえちゃんはどうしてここで泣いてるの?」
躊躇わずにミラは尋ねる。
「な、何でもない。大切なものを失くしてお別れを言えなかった。」
ミラは彼女に初めて会ったのにどこか親しみを覚えた。懐かしさと悲しみの匂い。潮風に混じった彼女の香水と何かが焼けた匂い。ここには色んな匂いが混ざり合い、とうとうミラにも影響した。ミラまで泣き出しそうになってしまったのだ。
「そうだ!」
ミラは手に持ったハンカチを抱きしめるように顔で覆った。その匂いをいっぱいに嗅いでいるようだ。そんなミラを彼女は優しい眼差しで見ていた。ミラは顔を上げて彼女を見て言った。
「あのね!この街で何か困ったことがあったらね、三番街の外れに『影帽子』ってお店があるの。きっとジャンが助けてくれるよ!」